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ゴルバチョフ
| 画像=Michael-Gorbatchov-ABr.jpg
| 代数=初
| 職名=大統領
| 国名=ソビエト連邦
| 副大統領職=なし
| 副大統領=
| 就任日=1985年3月15日
| 退任日=1991年12月25日
| 出生日=1931年3月2日
| 生地=プリヴォリノエ村
| 生死=存命
| 死亡日=
| 没地=
| 配偶者=ライサ・ゴルバチョワ(旧姓ティタレンコ)
| 政党=ソビエト連邦共産党
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ミハイル・セルゲーエヴィッチ・ゴルバチョフ(, Mikhail Sergeevich Gorbachev, 1931年3月2日 - )は、ソビエト連邦(現在のロシアを中心とした連邦国家)の政治家。ソビエト連邦最後の最高指導者。1985年にソビエト連邦共産党|共産党書記長に就任し、国内でペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を進め、外交面では冷戦を終結させ軍縮を進めるなど、平和|世界平和に多大な貢献をした。1990年、ソ連で最初で最後となる大統領に就任し、同年にはノーベル平和賞を受賞。日本を含む西側諸国でも絶大な人気を誇り、ゴルビーの愛称で親しまれた。
生い立ち
1931年3月2日ソビエト連邦ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のスタヴロポリ地方プリヴォリノエ村にコルホーズの農民の子として生まれる。幼年時代、ヨシフ・スターリン|スターリンの大粛清に遭遇する。モスクワ大学法学部に入学。後に夫人となる哲学科の学生ライサ・ゴルバチョフ|ライサ・マクシモーヴナ・ティタレンコと出会う。また、在学中、チェコスロバキアから留学していた、ズデネク・ムリナーシと出会う。ムリナーシは後に、チェコで「プラハの春」の推進者の一人となり、その後のゴルバチョフに大きな影響を与えた。1952年にソ連共産党に入党。1953年ライサと結婚。1955年にモスクワ大学法学部を卒業。
権力の掌握
大学卒業後、故郷のスタヴロポリに戻り、地元でコムソモール活動に従事する。1955年にスタヴロポリ市コムソモール第一書記、1962年スタヴロポリ地方コムソモール第一書記、1966年スタヴロポリ市党第一書記、1968年スタヴロポリ地方党第二書記を経て、1970年スタヴロポリ地方党第一書記に就任し、1971年には40歳の若さで党中央委員に選出される。ゴルバチョフがスタヴロポリ地方の党官僚として階梯を登り始めた時期は、ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフの非スターリン化が実施された時期であり、ゴルバチョフにも影響を与えたと考えられる。また、この間、同郷のユーリ・アンドロポフの知遇を得た他、同格の地方共産党の指導者であったボリス・エリツィンやエドゥアルド・シェワルナゼらと交流を持つに至る。その後1978年自殺したフョードル・クラコフの後任として農業担当書記になる。1979年政治局入りし、政治局員候補となる。1980年最年少の政治局員となる。レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ書記長の死後、アンドロポフが書記長となる。ゴルバチョフは、No.2に当たるイデオロギー担当書記となる。コンスタンティン・チェルネンコ|チェルネンコ書記長時代も病身のチェルネンコを「第二書記」として補佐し、次第に改革派としてその名が知られるようになる。1983年、カナダを訪問し、ピエール・トルドー首相と会談。この時に駐カナダ大使で、後にゴルバチョフ政権のNo.2としてペレストロイカを牽引するアレクサンドル・ヤコブレフ(ヤコブレフは1973年に当時のブレジネフ書記長によってカナダ大使に任命された)と面識を持つ。さらにイギリス|英国を訪問し、マーガレット・サッチャー首相から「彼となら一緒に仕事ができます」と高い評価を受ける。

